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【ブラHC】東京橋巡り:一石橋 [ブラHC]

常磐橋から東京駅方向に少し歩くと「一石橋」があります。
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一石橋の歴史。
”北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。”(Wikipediaより。)
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橋の途中になんと首都高の入り口があるんです。
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一石橋から望む日本橋川。無機質な首都高にうまく溶け込んでいます。
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この先は東京八重洲。
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反対側に渡ります。
漢字で一石橋と書かれています。
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一石橋の親柱。この親柱にも謂れがあるようです。
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”1963年(昭和38年)12月に首都高速都心環状線の京橋出入口〜呉服橋出入口間が開通した際に、下流側橋詰に呉服橋出入口を設置するために親柱2本を撤去、さらに1973年(昭和48年)には鈑桁橋に改修される際に袖柱4本も撤去、上流側に親柱2本が残るのみとなってしまう。
さらに老朽化と拡幅のために1997年(平成9年)の大改修時に撤去となるところであったが、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産であることが認められ、2002年(平成14年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されることとなった。”(Wikipediaより。)
江戸時代この界隈はかなりの繁華街だったそうで、迷子が多く出たそうです。当時、迷子は地元が責任を持って保護するよいう決まりがあったため、地元町民が「満よひ子の志るべ」(迷い子のしるべ)が建てられたそうです。
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いい時代ですね。
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一石橋から望む日本橋川。向こうには常磐橋が見えます。
東京橋巡りは続く・・・
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